国道365号線で滋賀県長浜市(ながはまし)のあねがわ温泉のあたりを走っていると、案内標識に「五先賢の館」と「近江孤篷庵」の文字があります。
前回は道に迷ってしまい「近江孤篷庵」だけだったので、今回は「五先賢の館」と「近江孤篷庵」の両方を訪れてきました。
五先賢の一人で、平安時代初期に生まれて天台宗の比叡山延暦寺の高僧となり、千日回峰行を最初に始めた相応和尚についての展示を見終わったところです。
五先賢とは、長浜市田根地区(たねちく)で生まれて、素晴らしい実績を残した 5人の先人。
海北友松という狩野派を代表する絵師

海北友松(かいほう ゆうしょう)は、戦国時代末期に現在の長浜市瓜生町で生まれました。
父親の海北綱親(かいほう つなちか)は、小谷城を居城とする浅井長政の重臣です。
幼少のころ京都の東福寺に出家しており、その当時に狩野派の絵を学びます。
また多くの禅僧や歌人、茶人とも親交を結び、それによって高い教養を身に付けました。

豊臣秀吉に仕えて、聚楽第にも多くの絵を書いています。
本当は武士の家系を再興したかったようですが、生涯その願いは叶いませんでした。
海北家はそのあと江戸時代後期まで、絵師の家系として続きます。
海北友松の武勇伝
海北友松の出自はそもそも武家なので、絵師に似合わず勇敢な一面があります。

親友の斎藤利三(さいとう としみつ)が、主君である明智光秀とともに本能寺の変を起こして、謀反人として本能寺跡に遺体が晒されたときにも、その勇敢さが現れました。
斎藤利三とは、春日局(かすがのつぼね)こと、お福の父親です。
海北友松は衛兵がいるにも関わらず、斎藤利三の遺体を持ち去って、仲間である東陽坊長盛が住職をつとめる京都の真正極楽寺 真如堂(しんにょどう)に手厚く葬りました。
真如堂の墓所を訪れると、3人のお墓が並んでいるそうです。

建仁寺の水墨襖絵と妙心寺の金碧屏風
海北友松は狩野派の絵を学びながらも、古代中国の絵から影響を受け、独自の水墨画を編み出しました。

彼の作品として特に有名なのは次のものです。
なお建仁寺の水墨襖絵の実物は、掛け軸に表装しなおして、京都国立博物館に保管されており、建仁寺には代わりとして高精細複製品が展示されています。
田根小学校の児童も水墨画
地元の田根小学校の児童たちは、田根地区の五先賢について学ぶ一環として、海北友松にちなんで水墨画の授業をするそうです。

「五先賢の館」の多目的研修室へと続く廊下には、その学習の成果が張り出してありました。
みんな 2本の竹を描いているのですが、同じ仕上がりのものは一つとしてありません。
習った水墨画の技法をいろいろと試しているようで、微笑ましかったです。
さらに「五先賢の館」の中を見て回ります。
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