国道365号線で滋賀県長浜市(ながはまし)のあねがわ温泉のあたりを走っていると、案内標識に「五先賢の館」と「近江孤篷庵」の文字があります。
前回は道に迷ってしまい「近江孤篷庵」だけだったので、今回は「五先賢の館」と「近江孤篷庵」の両方を訪れてきました。
五先賢の一人で、戦国時代末期に生まれて賤ヶ岳の七本槍となった片桐且元についての展示を見終わったところです。
五先賢とは、長浜市田根地区(たねちく)で生まれて、素晴らしい実績を残した 5人の先人。
茶道や華道に通じ庭園作りが得意な小堀遠州

小堀遠州(こぼり えんしゅう)は、安土桃山時代に現在の長浜市小堀町で生まれました。
父親の小堀正つぎはそもそも浅井長政の家来だったのですが、小谷城が落城したあとは戦国の世をうまく渡り歩き、家族を連れて住まいを移り変わります。
我が子の小堀遠州の利発さと器用さをいち早く見抜き、幼い頃から書道や華道、茶道などを習わせ、またときには作事奉行(さくじぶぎょう)の手伝いなどもさせました。
作事奉行とは、御殿や寺社の建築や修繕を管理監督する、武家時代の職名です。
その甲斐もあって小堀遠州は、父の作事奉行としての仕事にたいへん興味を持つようになり、作事奉行の一員に加えられるまでになったそうです。
遠江守という官位をいただいて

小堀遠州の元服名は、政一(まさかず)といいます。
しかし当時は目上の者でもない限り、元服名を呼ぶことはありませんでした。
さて小堀遠州は 30歳ごろに、徳川家康の隠居所である駿府城の作事奉行を任せられます。
お城が完成するとその功によって、遠江守(とおとうみのかみ)の官位を与えられました。
当時の武家ではよく、名字の下に官位を付けて名乗ったり呼んだりします。
「小堀」に遠江の別名である「遠州」を付けて、「小堀遠州」と呼ばれるようになりました。
三大茶人の一人として数えられる

小堀遠州は古田織部(ふるた おりべ)に師事して、本格的な茶道を学びました。
古田織部は、織部焼という陶器で有名な、武将であり茶人です。
その腕前は、千利休(せんのりきゅう)や古田織部と並んで、「三大茶人」の一人として数えられるほどで、徳川秀忠と徳川家光の 2代にわたって茶道師範を務めています。
また茶道や華道においては「遠州流」という独自の流派を創り出しました。
遠州流で作られた庭園と水琴窟
「五先賢の館」には、小堀遠州作ではありませんが、遠州流で作られた庭園があります。
その庭園は、玄関を入ってすぐに左へ曲がり、スリッパを脱いで、奥へ進んだ先にあります。
どのような庭園を作れば遠州流庭園なのかは判りませんが、何だかさっぱりした雰囲気です。
右手奥には、浅井長政の居城だった小谷城跡がある小谷山が見えました。

水琴窟があったので庭に降りて、柄杓で水を玉砂利の上に垂らしてみることに。
近くの農業用水の音がうるさかったのですが、それでも結構いい音が聞こえてきました。
さらに「五先賢の館」の中を見て回ります。
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