国道365号線で滋賀県長浜市(ながはまし)のあねがわ温泉のあたりを走っていると、案内標識に「五先賢の館」と「近江孤篷庵」の文字があります。
前回は道に迷ってしまい「近江孤篷庵」だけだったので、今回は「五先賢の館」と「近江孤篷庵」の両方を訪れてきました。

五先賢の一人で、安土桃山時代末期に生まれて茶人であり庭園作りの名手でもある小堀遠州についての展示を見終わったところです。
明治の三詩人の一人、小野湖山

小野湖山
小野湖山(おの こざん)は、江戸時代後期に現在の長浜市高畑町で生まれました。
父親の横山玄篤(よこやま げんとう)が医者ということもあり、最初は医者を志します。
しかしあまり好きではなかったので、得意な漢詩作りに熱中していきました。
早くから漢詩人の梁川星巌(やながわ せいがん)に入門し、苦労の末に奥義を会得します。
また漢詩人の大沼枕山(おおぬま ちんざん)などとも親交があり、「明治の三詩人」の一人に数えられるまでになりました。
安政の大獄で幽閉されるが
小野湖山は、三河国(みかわのくに、現在の愛知県)の吉田藩に、儒学者として仕えていたことがあります。
水戸藩の藤田東湖(ふじだ とうこ)たちと親交を深めるなどして、天皇に忠義をつくす思いを熱くし、尊王攘夷(そんのう じょうい)の思想を抱いて活動していました。
安政の大獄が始まると吉田藩は、そんな小野湖山の身を心配して、吉田城の中に幽閉して匿(かくま)います。
このときは名前を「横山仙助」から「小野侗之助」に変えて、探索の手を逃れました。
漢詩人として悠々自適
小野湖山は、明治の廃藩置県(はいはんちけん)の後は、悠々自適の生活を送りました。
漢詩人として花開き、さまざまな人と漢詩のやりとりをします。
作った漢詩は数千首にのぼり、漢詩集は優に十冊を超えました。

小野湖山が明治天皇から下賜された硯
山本琴谷が描いた「窮民図鑑」に感動して小野湖山が作った「鄭絵余意(ていかいよい)」は、明治天皇の目に留まることとなり、小野湖山は硯(すずり)を賜りました。
- 墨
- 硯
- 墨汁
さて職員さんによると最近の子どもたちは、硯のことを墨汁(ぼくじゅう)を入れて、筆を揃えるための容れ物だと思っているそうです。
墨(すみ)を磨(す)ることは手間がかかるので、学校ではもう教えていないのかも知れません。
あとがき
滋賀県長浜市の田根地区という狭い範囲から、5人もの先賢が輩出されたなんて驚きです。
ただ残念なことには、その中に女性が一人もいません。
この頃は、女性が活躍する時代だ、と声高に叫ぶ人がいます。
6人目の先賢は、女性の方が選ばれると良いですね。
折角なので久しぶりに、近江孤篷庵も見に行きます。

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