【福井】敦賀市の赤レンガ倉庫から天筒山を越えて その4 (金ヶ崎城跡前篇)

城郭めぐり
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今年(2020年)は暖冬なので、一部地域を除いて、あまり雪が積もっていません。
3月になってすこし春めいてきたので、久しぶりに福井県を訪れてみることにしました。

ところが国道8号線(敦賀バイパス)で道を間違えて、いつの間にか敦賀港のあたりへ。
とりあえず道路案内標識で気になった「敦賀赤レンガ」へ行ってみることにしました。

敦賀赤レンガ周辺の地図
敦賀赤レンガ周辺の地図

敦賀赤レンガの駐車場まで一旦戻り、廃線の踏切を渡って、金前寺芭蕉翁鐘塚と旧敦賀港駅のランプ小屋を見たあとは、階段を上って金崎宮に参拝しました。

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金ヶ崎城跡の入り口へ

金ヶ崎城阯と花換の小道
金ヶ崎城阯と花換の小道

金崎宮の本殿から左の方へ進み、絹掛神社の前を通って外へ出ると、金ヶ崎城址の石碑がありました。
ここからの道は花換まつりにちなみ、「花換の小道」と名付けられているようです。

金ヶ崎城はかつて、織田信長(おだ のぶなが)と朝倉義景(あさくら よしかげ)が戦った場所です。

織田信長は、若狭国の天筒山城金ヶ崎城を攻め落とし、敵の本拠地の越前国に攻め入ろうとしていました。
ところが、義理の弟である浅井長政に裏切られ、退却を余儀なくされます。

浅井長政は、近江国の戦国武将で、織田信長の妹、市(いち)が最初に嫁いだ先。
浅井三姉妹とも称される、茶(茶々)、初、江を儲けた。

そのとき最後まで金ヶ崎城に残り、信長の退却する時間を稼いだのが、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)です。
この金ヶ崎の戦いのことを、なぜか「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」とも呼ぶようです。

退き口とは「退却し始める場所」という意味。

周りの海が埋め立てられた、鴎ヶ崎

花換の小道を終点まで歩いてくると、岬の広場へと下りていく階段がありました。
寂しげな場所で水色の建物が目立っていますが、折角なので行ってみることに。

階段を下りていくと、途中には絹掛松(きぬかけのまつ)に関する解説板がありました。

南北朝時代、恒良親王が前方の岬から小舟で蕪木浦へ落ち延びる際、脱いだ衣をマツの木に掛けたそうです。
現在そのマツの木は枯れてしまいましたが、その岬は絹掛崎(きぬかけのさき)とよばれています。

恒良親王(つねよししんのう)は、後醍醐天皇の皇子の一人。

鴎ヶ崎
鴎ヶ崎

ということで、鴎ヶ崎(かもめがさき)まで下りてきました。
むかしは風光明媚な場所だったそうですが、現在は周辺の海が埋め立てられ、景色を眺める気にはなりません。

ちなみに皇太子時代の大正天皇が、ここで敦賀湾の景色を眺めながら休憩したそうです。

尊良親王御陵墓?

尊良親王御陵墓見込地の入り口
尊良親王御陵墓見込地の入り口

金ヶ崎の登山道を歩いていると、尊良親王御陵墓見込地の入り口に着きました。
この階段を上った先に、尊良親王のお墓だと思われている場所があるようです。

尊良親王(たかよししんのう)は、後醍醐天皇の皇子の一人。

丸太の階段を登って土塁の上に立つと、奥に金ヶ崎城の曲輪跡だと思われる広場が見えました。
現在も土塁がしっかりと遺(のこ)っているので、曲輪跡がかなり低く見えます。

尊良親王御陵墓見込地
尊良親王御陵墓見込地

さらに階段を上っていくと、明治 9年建立の尊良親王御陵墓見込地と刻まれた石碑がありました。
ただ尊良親王御陵墓指定地が京都市左京区にあるので、現在は自害した場所だと考えられています。

金ヶ崎城の竪堀跡

さて金ヶ崎城跡は金ヶ崎一帯に広がっているので、尊良親王御陵墓見込地の石碑もその中にあります。
周りを見回すと人工的な雰囲気がするので、金ヶ崎城の遺構を探して、あたりを歩き回ってみました。

南側の斜面を見に行くと、上下方向に大きく斜面が掘られています。
どうやらこの場所には、竪堀があったようです。

竪堀とは、斜面を攻め上ってきた敵が横移動するのを妨げるため、上下方向に設けた堀のこと。

御陵墓見込地から曲輪跡
御陵墓見込地から曲輪跡

また先ほど見た曲輪跡を、あらためて尊良親王御陵墓見込地から見下ろしてみました。
年月を経て周囲の土塁は多少緩やかになってはいますが、今なお高くて登りにくそうです。

さらに金ヶ崎城跡を歩きます。

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