久しぶりに日本海が見たくなって、国道8号線を北上し、福井まで行ってきました。
しかし、海岸沿いの道路は交通量が多いので、めぐってきたのは内陸の今庄(いまじょう)付近です。
ただ今、北国街道の今庄宿の中を散策しております。
もと銀貨と藩札の交換所
燧ヶ城址(ひうちがじょうし)の看板の前を出発すると、すぐに北善商店というお酒の醸造元の前に来ました。

江戸時代この場所は、御札場(おふだば)といって、金貨銀貨と藩札(はんさつ、藩が独自に発行したお札)を交換する場所でした。

当時の福井藩の領内では、藩札の使用が強制されていたので、福井藩の南の玄関口にあたる今庄宿で、旅人や商人が金貨銀貨と藩札を交換していたそうです。
正面から見ると二階建て

またすこし歩くと、今度はもと旅籠「大黒屋」だった建物の前に来ました。
以前は、1階部分が理容店と食料品店になっていたようですが、すっかり再生されました。

特徴的なのは、正面から見ると 2階建てに見えるのですが、後ろ側はそうなっていないということです。
誰か偉い方が北国街道を通られるに当たり、正面だけ改築したのでしょうね。
皇女和宮の御下向行列
これと同じものを、中山道(なかせんどう)でも見たことがあります。

幕末のころ、公武合体(こうぶがったい)のため、皇女和宮(こうじょ かずのみや)が、京から中山道を下って、江戸の将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)に嫁ぐことになりました。

皇女和宮御下向行列が中山道を通るというので、中山道沿いの人々は大急ぎで、建物の中山道側だけを立派な 2階建て風に、改築したということがありました。
どこでもみな、考えることは同じなのですかね?
明治天皇が泊まられた本陣跡
さて、またしばらく街道を歩いていくと、今度は左側に広い本陣跡が現れます。
街道を挟んでななめ向かい側には、板塀に囲まれた脇本陣跡もあります。

今庄宿に関する巨大な説明書きによれば、かつて明治天皇が北陸を巡られた際に、ここにあった本陣に宿泊されたそうです。
北国街道を通った偉い方とは、明治天皇のことだったのですね。
明治殿として今なお残る

のちに本陣の建物は、家主家族が引越してしまったので荒れ果ててしまい、一旦は敷地から取り除かれました。
しかし、明治天皇が宿泊された部屋だけは、上にひのき造りの屋根を載せ、もともとあった本陣跡に移築してあります。
その建物を明治殿と呼び、さらに敷地一帯を整備して公徳園と呼んでいます。
御茶屋馬場跡であり小学校旧校舎跡

さて、本陣跡の右側の坂道を登っていくと、お寺の手前に広がる駐車場に着きました。
ここはかつて、今庄小学校の旧校舎が建っていた場所のようです。

さらに江戸時代には、福井藩の役所があり、たくさんの伝馬が常時待機していたそうです。
伝馬は、緊急連絡、公文書の送付、急ぎの役人の旅行用などに用いられた馬のことです。
ちなみに、ボクが通っていた小学校も「今小」で、校章の漢字の部分が似ています。
それゆえ、ちょっと懐かしくなりました。
ではちょっと、古民家カフェで休憩です。
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