【滋賀】井伊家ゆかりの寺社と佐和山に行った話 その3 (佐和山城跡篇)

城郭めぐり
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大河ドラマ「おんな城主 直虎(なおとら)」の中で出てくる龍潭寺ですが、実は滋賀県の彦根市(ひこねし)にもあります。

ちょっと周辺を歩いてきました。

龍潭寺(りょうたんじ)の拝観も終わりましたので、佐和山城跡に登ってみることにしました。

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佐和山城跡へむけて出発すると直虎ののぼりを発見!

佐和山城跡(さわやまじょうせき)とは、滋賀県彦根市(ひこねし)にある城跡です。
彦根の清凉寺(せいりょうじ)が管理しており、無料で開放されています。

龍潭寺にある大洞観音堂
龍潭寺の境内にある大洞観音堂

龍潭寺(りょうたんじ)の本堂から出て、庭の中の道を左へ曲がりました。
大洞観音堂の方へ進み、墓地の横を通り抜けると、佐和山城跡へと続く登山道がはじまります。

井伊直虎ゆかりの地の幟
井伊直虎ゆかりの地の幟(のぼり)

墓地の中には、大河ドラマ「おんな城主 直虎」を宣伝するのぼりが立ててありました。

まずは佐和山城跡の本丸(頂上)に向かいます!

龍潭寺の墓地を通り抜けると、道も急になります。
枯れ葉が大量に落ちており、少しぬかるんでいたので、登山道は滑りやすかったです。

佐和山の分岐点
佐和山の分岐点、(左)大洞弁財天、(手前)龍潭寺、(右)西の丸・本丸、(奥)鳥居本

ある程度登ると、道が別れていました。

まっすぐ行くと「鳥居本」、左へ行くと「大洞弁財天」、右へ行くと「西の丸・本丸」と書かれています。

まずは、西の丸・本丸方面へ進みます。

西の丸の下段曲輪にあった塩硝櫓の入口
西の丸の下段曲輪にあった塩硝櫓(えんしょう やぐら)の入口

しばらくはなだらかな道でしたが、すぐに上り坂になりました。
上り坂を登り、やっとのことで西の丸の下段曲輪(げだん くるわ)に着きました。

西の丸の三段の曲輪を通り抜ける道
西の丸の三段の曲輪を通り抜ける道

まだまだ、道は続きます。
西の丸に生い茂る竹やぶの間を通り抜けます。

頂上へと向かう丸太の階段
頂上へと向かう丸太の階段

西の丸を出たら、丸太の階段を登ります。
しばらく細い道が続きましたので、気を付けて頂上の本丸まで行きました。

本丸(頂上)をうろつくサルに気を付けながら

猿の家族

頂上には、すでにいくつかのグループが居て、さらにはサルの群れまでいました。
人間が大勢いるのに、子ザルが群れから遅れるので、親ザルは気が気でない様子です。

猿を刺激しないように、佐和山城跡の本丸を見て回りました。

猿の群れは、下手に手を出すと危ないので、注意しましょう
佐和山城跡の本丸
佐和山城跡の本丸(頂上)

多少、地面がでこぼこしていましたが、取り立てて「これは!」というものは、ありませんでした。

佐和山城は跡形もなく取り壊され、見る影もなし!

徳川四天王の1人である井伊直政(いい なおまさ)は、西暦1600年の「関ヶ原の戦い」で活躍したので、近江国佐和山に18万石を与えられました。

「関ヶ原の戦い」の西軍の大将、石田三成(いしだ みつなり)の居城だったところです。

佐和山の頂上からの彦根城
佐和山の頂上から、遠く彦根城を望む

しかし、佐和山は険しいので、なだらかな彦根山に城を移したそうです(諸説あり)。
そのときに佐和山城をはじめ、いろんなお城の石垣や建材を流用したそうです。

佐和山城跡の頂上
佐和山城跡は跡形もない

さらには、西暦1615年に「一国一城令」も出されています。
ゆえに近江国の彦根城以外のお城は、取り壊されました。

徳川方の井伊家が、その法令を守らないわけにはいきませんから。

分かれ道ふたたび

佐和山の分岐点
佐和山の分岐点、(左)龍潭寺、(手前)西の丸・本丸、(右)鳥居本、(奥)大洞弁財天

佐和山城跡を下りて、ふたたび先程の分かれ道に戻ってきました。

右に曲がって「鳥居本」に行くと、駐車場に戻ってくるのが大変そうです。
まっすぐ進んで、「大洞弁財天(おおぼらべんざいてん)」に行くことにしました。

次回は、大洞弁財天についてです。

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