岐阜県大垣市青墓町(おおがきし あおはかちょう)には、青少年憩いの森があります。
谷あいに円興寺というお寺があって、その西と東の山に 2つのルートが整備されています。
今回は、青少年憩いの森遊歩道の朝長ルートを歩いてきました。
予定では両方歩くつもりでしたが、元円興寺跡を歩き回っていたら遅くなったので、断念することに。

表参道口から、青少年憩いの森の朝長ルートを歩き始めて、元円興寺仁王門跡まで来ました。
展望台は見晴らし悪し
展望台への石段 あずま屋のある展望台
折角なので、石段を登って展望台にも行ってみました。
すぐに着いた展望台にはあずま屋も建てられているので、景色を楽しみながら休憩できたようです。
実際の展望 展望案内図
ところが現在は樹木がすっかり生い茂ってしまい、濃尾平野も養老山地もあまり見えませんでした。
設置された展望案内図が、風雨に晒(さら)されてすっかり古びています。
展望台から奥へ てっぺんに何もなし
展望台の裏側へ行くと、山道が続いていたのでさらに登ってみました。
てっぺんはあたりで一番高い平坦地なので、もしかすると元円興寺の塔が建てられていたのかも知れません。
帯刀を一時預けた、刀石
源朝長墓所へ 振り返って源朝長墓所入り口
さて展望台から戻ってきたら、つぎは源朝長墓所(みなもとのともなが ぼしょ)へ向かいました。
青少年憩いの森の朝長ルートを歩いているので、行かない訳にはいきません。
源朝長は、源頼朝(みなもとのよりとも)と源義経(みなもとのよしつね)の異母兄です。
分かれ道の入り口には、「史蹟 源朝長墓」と刻まれた標柱が立てられていました。
お墓が近くにあるのかと、あたりを探してしまいそうになります。

また標柱の近くには、「刀石」とよばれる角張った石が斜面から突き出していました。
源朝長墓所へお参りするにあたって、帯刀を一時的に預けるためのものなのだそうです。
頼朝の腹違いの兄のお墓

刀石から分かれ道を登っていくと、すぐお墓に着きました。
お地蔵さんの隣に並べられた五輪塔群のひとつが、源朝長の墓石です。
平治の乱で平清盛に敗れたとき、源義朝一行の落ち延びてきた場所が、東山道青墓宿でした。
比叡山の僧兵の手にかかり、脚に大怪我をした源朝長は「もうダメだ」と観念してこの地で自害します。
壇ノ浦の戦いで平氏一門に勝った源頼朝は、兄朝長の墓所で菩提を弔(とむら)ったそうです。

墓所の背後には、清和源氏の家系図が立てられていました。
頼朝と義経以外、歴史にはあまり登場しませんが、朝長のほかたくさんの兄弟がいたようです。
東山道青墓宿の長者の墓、大炊家墓所

源朝長墓所から奥へ進んで一段下がったところには、大炊家墓所がありました。
大炊氏は平安時代に活躍した、東山道青墓宿の長者の家柄です。
大炊行遠・兼遠親子は、二代に渡って源氏に仕えました。
また兼遠の娘である延寿は、源義朝の子である夜叉御前(やしゃごぜん)を産み育てています。
保元・平治の乱のときにも、源義朝は東山道青墓宿を訪れていました。
大炊氏の力を借りて、源氏の再興を図ろうとしていたようです。
新撰美濃志のコマ番号:85/446
国立国会図書館デジタルコレクションより
つぎは元円興寺跡へ行きます。
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