岐阜県大垣市青墓町(おおがきし あおはかちょう)には、青少年憩いの森があります。
谷あいに円興寺というお寺があって、その西と東の山に 2つのルートが整備されています。
今回は、青少年憩いの森遊歩道の朝長ルートを歩いてきました。
予定では両方歩くつもりでしたが、元円興寺跡を歩き回っていたら遅くなったので、断念することに。

展望台へ寄り道したあとは、朝長ルートの由来になった源朝長墓所を訪れました。
何度も建て直された、円興寺
分岐点(左下)裏参道口(奥)元円興寺跡 建物跡らしき平坦地
さて源朝長墓所からは、元円興寺跡を見に行きました。
下っていった先の分岐点では裏参道へ進まずに、建物跡と思われる平坦地の脇を登っていきます。
元円興寺金堂跡推定地 元円興寺跡伽藍配置推定図
すると広々とした場所に着きました。
設置されている解説板によると、着いたところは元円興寺金堂跡と推定されている場所のようです。
金堂とは本堂ともいい、ご本尊が安置されている建物のこと。

円興寺はそもそも伝教大師最澄によって建てられたもので、壮麗な七堂伽藍を配しておりました。
ところが織田信長の兵火によって全焼してしまいます。
一度再建されたそうですが、今度は雷が落ちてしまい、またもや全焼してしまいました。
湿地帯ということもあり、最後は西側の山のふもとに建て直されて、現在に至っているようです。
階段を登って多宝塔跡推定地へ
多宝塔跡推定地への丸太階段 かなり広い多宝塔跡推定地
金堂跡推定地のつぎは、元円興寺多宝塔跡推定地を見に行きました。
多宝塔跡推定地へと続く丸太階段が処どころ朽ちていますが、頑張って斜面を登っていきます。
すると多宝塔跡推定地にしては、かなり広々とした場所に着きました。
一番奥には、休憩用のベンチとテーブルが設置されています。
多宝塔跡推定地の礎石群
多宝塔跡推定地の真ん中で地面を見ると、礎石が横方向 2列に並べられていました。
塔の土台は真上から見たときに通常正方形なので、もしかすると正倉院のような宝蔵跡なのかも知れません。
高台に建てられた宝蔵であれば、収められた宝物を水の被害から守れます。
僧房跡推定地と講堂跡推定地

塔跡推定地のつぎは、僧房跡推定地と講堂跡推定地を見に行きました。
窪んだ通路の中は枝だらけなので、土塁の上を下りていきます。
僧房跡推定地 講堂跡推定地
僧房跡推定地と講堂跡推定地は、窪んだ通路をはさんで左右にありました。
右側の平坦地の方が奥行きがあって広いので、講堂跡と推定されているようです。
元円興寺跡伽藍配置推定図によると、道の先に五輪塔が描かれているので探してみることに。
段々になった平坦地を谷川の向こう側まで探し回ってみましたが、結局五輪塔は見つかりませんでした。
鐘堂跡推定地と御堂跡推定地
高台の上(左)御堂跡推定地 高台の上(右)鐘堂跡推定地
最後は坂道を登って、御堂跡推定地と鐘堂跡推定地を見に行きました。
高台の上は手前と奥の 2段になっており、手前に鐘堂が奥に御堂が建てられていたようです。
御堂とは、仏像が安置されている建物のこと。
御堂跡推定地(左) 御堂跡推定地(右)
折角なので鐘堂跡推定地から御堂跡推定地へ登ってみました。
境い目にあった石垣はほとんど崩れており、なだらかな斜面になっています。
御堂跡推定地奥の五輪塔 鐘堂跡推定地正面の石段
御堂跡推定地の最奥には、探し回っても見つからなかった五輪塔がありました。
鐘堂跡推定地正面の崩れかけた石段を下って金堂跡推定地へ戻り、元円興寺跡をあとにします。
さらに朝長ルートを歩いていきます。
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