【岐阜】恵那市の岩村城跡へ紅葉の頃に その3 (畳橋と八幡宮と霧ヶ井と埋門篇)

城郭めぐり
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岐阜県恵那市(えなし)には、岩村城跡(いわむらじょう あと)があります。
奈良県の高取城跡や岡山県の松山城跡と並び称され、日本三大山城の一つに数えられています。

今回は、ふもとの駐車場から岩村城跡本丸まで登りながら、いろいろと見て歩くことに。
やけに観光客が多いと思ったら、木の葉が赤く色づいていました。

岩村城跡 案内図
岩村城跡 案内図

下田歌子勉強所から、石畳になった藤坂を登りながら、初門一の門土岐門の跡を見て歩きました。

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いざとなったら橋板を外す、畳橋

さて土岐門から程なくの場所には、畳橋(たたみばし)が架かっていたという場所がありました。
本来は土手の上を登っていって畳橋を渡るのですが、橋がないので下の道を通ります。

畳橋の橋板は固定されておらず、畳のように簡単に外せるようになっていました。
戦(いくさ)が始まったら橋板を外して、橋を渡れなくします。

そのままでは石垣の上へ登りにくいので、奥の斜面が削られて坂道に仕立ててありました。
坂道は石段になっていますが、ちょっと不安定な感じがします。

石垣の上に登ると追手門があったらしく、そこは枡形の広い場所になっていました。
広場の奥から畳橋のあった場所を見ると、橋台の石垣が横にずれており、橋が L字形だったことが判ります。

八幡宮阯へ寄り道

追手門を出て高石垣の間を通り抜けたら、左側の石段を登って八幡宮阯に寄り道しました。
八幡宮阯への石段は隣の曲輪だったので、すこし移動します。

霧ヶ井の近くから石段を登る方が、八幡宮跡への近道かも知れません。

石段を登ったところには、八幡宮阯の立て札が立てられていました。
中段から上段にかけては、神社を管理するための別当寺として、薬師寺が建てられていたようです。

絵図によると薬師寺は、京都の清水の舞台のように、斜面に建てられていたようです。

かつて八幡宮の社殿があった上段には、霧ヶ城 龍神社がありました。
岩村城は別名を「霧ヶ城」というので、水を司る龍を祀(まつ)っているのでしょう。

遠山氏の始祖加藤景廉(かとう かげかど)を祀る八幡宮は、現在ふもとに移転されています。

霧ヶ城の由来となった、伝説の霧ヶ井

ということで寄り道する前の場所まで戻って、今度は薄暗い登城道を歩いていきました。
すると着いたのは「霧ヶ井」という名の井戸の前です。

山の霧

敵兵の急襲を受けたとき、この井戸に秘蔵の蛇骨を投げ入れ、湧き出した霧で岩村城を覆い隠したのだとか。
岩村城が「霧ヶ城」と呼ばれるゆえんになっています。

蛇骨とは、ヘビの骨という意味のほか、珪華(けいか)という意味もある。
珪華とは、温泉や地下水から主にケイ酸が沈殿したもの。

ちなみに霧ヶ井の前で振り返ると、八幡宮阯の入り口になっていました。
かつては入り口に鳥居があったそうです。

六段壁を素通りして、埋門へ

さてすっかり平坦になった登城道を歩いていると、正面に六段壁(ろくだんへき)が現れました。
ただ人だかりがすごいので、後で改めて見に行くことに。

六段壁横を奥へ歩いていくと、「埋門」とよばれる場所に着きました。
裏門として使われていたようです。

埋門とは、腰を曲げなければ通れない低くて小さい門のこと。

岩村城の埋門は、両側と奥の石垣の上に櫓(やぐら)が覆い被さっていたそうです。
櫓を支える柱を立てるため、地面には穴の空いた四角い石が 4つ置かれていました。

さらに岩村城跡を登っていきます。

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