滋賀県長浜市余呉町(ながはまし よごちょう)には、菅山寺(かんざんじ)があります。
国道365号線で余呉町を通るたびに、その案内板を見掛けるので気になっていました。
以前、余呉湖ほとりの食堂で聞いた話では、菅山寺は山の上にあるお寺なのだそうです。
調べてみると登りやすそうなので、菅山寺を見に行ってきました。

菅山寺城跡の遺構を見ながら、景色の良い交差点まで進んだあとは、急勾配の坂道を通って、菅山寺山門のあたりまで下り、境内に作られた菅山寺自然園を見ました。
古びた護摩堂と庫裏
護摩堂・庫裏への案内板 護摩堂と庫裏
まずは菅山寺自然園の中に作られた小径を通って、護摩堂(ごまどう)と庫裏(くり)を見に行きます。
植物のシャガが植えられている場所は、広くて平らなので、かつては建物があったのでしょう。
歩いていくとすぐに、護摩堂とその奥の庫裏が見えてきました。
奥の庫裏の 1階部分は工事中なのか、一定間隔ごとにベニヤ板らしきものが取り付けられています。
庫裏とは、寺の台所のこと。住職やその家族の住居であることも多い。

また手前の護摩堂は装飾もほとんど無く、全体的に古びていますが、目立った損傷はなさそうです。
ただ扉も蔀(しとみ)も固く閉じられており、中の様子をうかがい知ることはできませんでした。
護摩堂とは、護摩木を焚(た)きながら不動明王などに対して祈祷(きとう)を行う建物のこと。
山門と片方が折れたケヤキの老木
護摩堂前の石段 倒れた菅公お手植えのケヤキ 山門を通って外へ
護摩堂からは前の石段を下り、石垣の前の道を歩いて山門を見に行くことに。
ところが、苔むした巨大な老木が道幅いっぱいに横たわっており、行く手を塞(ふさ)いでいました。
山門とケヤキ(左) 山門とケヤキ(中) 山門とケヤキ(右)
仕方がないので来た道を戻り、山門から外へ出て振り返ってみます。
すると菅公お手植えのケヤキの片方が、無残にも幹の途中から折れていました。
菅公とは、菅原道真(すがわら の みちざね)公のこと。
余呉湖近くの村で生まれ、幼少期はここで勉強し、寺を復興させた功績で「菅山寺」に。

ちなみにもう一方のケヤキは、手入れが行き届いているようで、老木ながらも弱っている様子はありません。
見上げると、青々とした葉をその枝いっぱいに広げていました。
この門は、菅山寺の「山門」ということになっていますが、お寺の規模に鑑(かんが)みると、形や大きさ、位置から考えて「中門」だと思われます。
旧表参道と古びた本堂
石垣の前を本堂へ 分岐点(左手前)大見集落(奥)本堂
山門からは石垣の前の道を通って、菅山寺本堂に向かいます。
その途中には、ふもとの大見集落まで続く分かれ道がありました。
かつての表参道は、ふもとの大見集落から菅山寺まで続く、長い登山道だったそうです。
本当の「山門」は、その表参道の途中にあったと考えられます。
菅山寺本堂の側面 菅山寺本堂の正面
と考えごとをしていたら、菅山寺本堂の横側に着きました。
本堂は処どころ壊れておりベンガラ塗りも剥げていますが、彫刻が施された立派な建物だったようです。
かつての表参道は普通に考えて、菅山寺本堂の正面に続いていたと思われます。
大事なものがない鐘堂と如法経堂

菅山寺本堂のすぐ隣には、屋根がブルーシートで覆われた鐘つき堂がありました。
老朽化して傾いていたのか、柱には斜めに筋交いが打ち付けられ、重要文化財の梵鐘は取り外されています。
梵鐘は、ふもとの里坊弘善館(要予約)で管理されています。

また崩れかけの石段を登ったところには、如法経堂(にょほう きょうどう)がありました。
専暁上人が宋(中国)に渡って、持ち帰ってきた一切経を回転式経典庫「輪蔵」に納めていたそうです。
一切経とは簡単に言うと、仏教の経典すべてのこと。
ところが徳川家康(とくがわ いえやす)に求められて、江戸・芝の増上寺に譲ったのだとか。
現在、東京タワーのふもとにある増上寺では、重要文化財「菅山寺経典」として保管しているそうです。
さらに菅山寺を歩いていきます。
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