【滋賀】湖南市吉永の三雲城址を訪ねて その2 (八丈岩から三雲城址主郭へ篇)

城郭めぐり
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滋賀県湖南市吉永(こなんし よしなが)には、三雲城址(みくもじょう あと)があります。
かつて三雲庄(吉永村、三雲村、妙感寺村)を治めていた、三雲氏の居城がありました。

ということで、三雲城址を訪ねてきました。
ふもとの旧東海道を見下ろせる、重要な拠点だったと思われます。

三雲城址周辺地図
三雲城址周辺地図

湖南市青少年自然道場跡の駐車場から、三雲城址登城口を経て、八丈岩まで登ってきました。

佐々木六角氏の家紋が刻まれた巨岩

さて八丈岩からは、登城口まで下ることなく、直接三雲城址方面へ歩いていくことに。
すると巨岩の前に「六角氏家紋の刻印岩(隅立て四つ目結)」と記された立て札がありました。

不思議な岩

ところが立て札の後ろにある巨岩の表面を探してみても、刻印らしきものが見当たりません。
もしかすると、刻印を探しなさい、ということかも知れません。

背伸びして後ろの巨岩の上を見ると、意味のありそうな白い板が置かれていたので、よじ登ってみることに。
背の高い巨岩の表面に、お目当ての家紋「隅立て四つ目結」が刻まれていました。

兵站地と近代の石切場

刻印岩からは、馬の背道を通って三雲城址へ向かいました。
両側が切り立った狭い尾根のことを「馬の背」と呼びますが、大して狭さは感じません。

馬の背道を通り抜けると、兵站地と考えられている城郭跡に着きました。
ただ兵站地は前線基地の後方にあるものなので、大手道の横では物資の補給もままならない気がします。

兵站地から下って大手道に合流すると、近代の採石場跡がありました。
重くて運ぶのが大変なので、数十年経った今でも、切り出された石が放置されたままです。

日本における近代とは、明治維新(1868年)から太平洋戦争終結(1945年)あたりを指します。

桝形虎口を通り抜けて

さて近代の採石場跡から大手道の先を見上げると、急勾配の切岸の上に石垣が見えました。
大手道に敷かれた丸太階段を登って、石垣を見に行くことに。

すると、石垣に囲まれて直角に折れ曲がった、三雲城址の出入り口である桝形虎口がありました。
大きな石を積み上げた石垣は、穴太衆(あのうしゅう)による野面積み(のづらづみ)だそうです。

ちなみに石垣の大石の端を見ると、矢穴跡が間隔を空けていくつも並んでいました。
鉄製のくさび(矢)を打ち込んで、石を切り出した跡です。

三雲城址の主郭と井戸

桝形虎口を通り抜けると程なく、三雲城址主郭と考えられている広場に着きました。
礎石は見当たりませんが、かつて佐々木六角氏三雲氏の居館が建てられていた場所だそうです。

三雲城想像図
三雲城想像図

主郭の中には、三雲城のかつての様子を描いた、三雲城想像図が設置されていました。
三雲城も、天下統一を目論む織田信長に攻め落とされてしまったようです。

ちなみに主郭の中に掘られた井戸は、今なおポッカリと口を開けて残っていました。
ここも穴太衆による野面積みだそうで、頑丈に造られているようです。

さらに、三雲城址を歩いていきます。

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