岐阜県大垣市青野町(おおがきし あおのちょう)には、美濃国分寺と美濃国分寺跡があります。
近くをよく通るのですが、今まで一度も訪れたことがありませんでした。
ということで、美濃国分寺と美濃国分寺跡へ行ってきました。
近くを東海自然歩道が通っているので、ついでに山中も歩いています。

親ヶ谷古墳から、道に迷いながらも垂井町斎場へ下って、史跡美濃国分寺跡まで来ました。
歴史公園に指定された、史跡美濃国分寺跡
美濃国分寺跡の南門跡 築地跡と大溝
さてせっかく史跡美濃国分寺跡へ来たので、中を見て歩くことにしました。
入り口はかつて美濃国分寺の南門(正門)が建てられていた場所で、基壇が盛り上がっています。
美濃国分寺の外周には、当時築地(ついじ)とよばれる瓦葺きの土塀が巡らされていたのだとか。
その外側には、幅およそ3メートルの大溝が遺(のこ)されています。
築地の跡地には現在、サザンカが植えられています。
南門跡から境内(左) 南門跡から境内(右)
南門を通って美濃国分寺跡の中へ入ると、広大な敷地が遠くの方まで続いていました。
美濃国分寺跡は昭和中期まで埋もれていたそうですが、環境整備されて現在は歴史公園に指定されています。
中門跡を通って七重塔跡へ

南門跡からまっすぐに伸びた参道を歩いていくと、中門跡に着きました。
向こうの方には、長い回廊でつながれた金堂跡の黒っぽい基壇が見えています。
美濃国分寺跡の塔跡 塔跡の礎石群
中門跡を通って東の方へ歩いていくと、塔跡がありました。
かつては美濃国分寺の象徴ともいえる、背の高い七重塔が建てられていたそうです。
基壇の上に登ると、礎石がいくつも点在していました。
真ん中のひと際目を引く出っ張りのある礎石は、塔の中心を貫く心柱を乗せた心礎です。
巨大な建物があった、金堂跡

塔跡のつぎは、ご本尊が安置されていた金堂跡を見に行きました。
基壇は復元されたものでしょうが、かなり大きいので、さぞかし大きな建物だったことでしょう。
ちなみに基壇の周囲には「犬走り(いぬばしり)」とよばれる細い空き地が巡らされていました。
その外側には「雨落溝(あまおちみぞ)」を掘って、雨水対策も施されています。
金堂跡の礎石群(左) 金堂跡の礎石群(右)
基壇の上に登ると、金堂の柱を支えていた大きな礎石が等間隔に配置されていました。
礎石の間を通って、反対側の階段から金堂跡の基壇を下ります。
講堂跡を通って駐車場へ

金堂跡の北側には、僧たちが仏教の教えを学ぶため日々修行した講堂跡があるそうです。
ところがあたりを探しても、道の両側に礎石がふたつあるだけです。
どこが講堂跡なのかさっぱり判らないまま、美濃国分寺跡の北側から出てしまいました。
そこは東海自然歩道に指定されている道路です。

山歩きのあとで探す元気がなく、そのまま現在の美濃国分寺の方へ戻ってしまいました。
美濃国分寺を巡る旅は、これにて終了です。
あとがき
実は長い間、史跡美濃国分寺跡と現在の美濃国分寺を混同していました。
史跡美濃国分寺跡の角に美濃国分寺の巨大な看板があるので、広大な敷地の大きなお寺だと思っていたのです。
実際に訪れてみると、史跡美濃国分寺跡と美濃国分寺はけっこう離れていました。
2つの間には大垣市歴史民俗資料館があるので、立ち寄ってみるのも面白いかも知れません。
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