ボクの住んでいる関ヶ原町は、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が有名です。
しかし、それ以前にも「壬申の乱」という古代の戦(いくさ)があった場所です。
東西交通の要衝(ようしょう)だったため、2度の争いが起こったようです。
壬申の乱という皇位継承争い
壬申の乱は、西暦672年に起こった古代日本で最大級の内乱です。

天智天皇(もと中大兄皇子)の息子である大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ、のちの天武天皇)が、皇位継承を巡って戦いました。
当時の都は、滋賀県の近江大津宮(おうみのおおつのみや)にあり、身の危険を感じた大海人皇子は一旦、岐阜県関ヶ原町の野上行宮(のがみあんぐう)に居を移していました。
その関ヶ原町に大友皇子の軍が攻め入ってくるのです。

最終的には大海人皇子が勝利して、奈良県の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で、即位します。
霊力のある実を配った山
その壬申の乱のときに、大海人皇子が陣を張ったのが、桃配山(ももくばりやま)だそうです。

戦の必勝を願って、大海人皇子が自軍の兵士に、桃の実を配ったと言われる場所です。
その当時、桃には霊力が宿っていると信じられていました。
以降その場所は、桃賦野(ももくばりの)または、桃配山(ももくばりやま)と呼ばれるようになります。

なお、その時の戦があまりにも惨(むご)たらしく、川が血で真っ黒に染まったそうです。
その川の名は、黒血川(くろちがわ)といい、新幹線と国道21号線が交差するあたりを今でも流れています。
家康はその故事にちなんで

さて時代は下って、徳川家康(とくがわ いえやす)は、関ヶ原の戦いにおいて最初、桃配山に陣を張りました。
それは、壬申の乱のときに、勝利した大海人皇子が陣を張っていたからです。
昔の人の方が、神仏やジンクスを余計に信じていたので、縁起を担いだのでしょうね。
しかし結局、桃配山は遠すぎたのか、最後は陣場野(じんばの)に陣を移してしまいます。
陣場野は、石田三成の陣がある笹尾山(ささおやま)に比較的近いところです。
徳川家康が陣を張ったので、「陣場野」と呼ばれるようになりました。
映画「関ヶ原」を見た住職が
さて以前、法事を済ませたあとに、みんなで食事をしていたときのことです。
お寺の住職が、映画館に何度も見に行ったという、岡田准一さん主演の映画「関ヶ原」の話を始めました。

その映画の中で、桃配山の上に館(やかた)が建っていたけど、そんな広い場所は無いはずなので、おかしいとのことでした。

実は現在、残念なことに桃配山のかなりの部分の土砂が削り取られています。
むかし国道21号線を平坦に通すため、比較的工事費が安い切通しにしてしまったのです。
そのことを住職に伝えると、いままで知らなかったらしく、かなり驚かれていました。
あとがき

実は、旧中山道の松並木のあたりに、桃配山への登山口があったようです。
しかしそこから伸びる登山道は、国道21号線の開通とともに途切れてしまいました。

なお現在、桃配山の北部分は私有地になっているらしく、立ち入りは禁止されています。

むかしの偉い人は、旧跡が現在のように観光資源になるなんて、あまり考えていなかったのでしょうね。
たぶん、似たようなことは日本全国にあるはずです。
誠に残念です。
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