岐阜県不破郡関ヶ原町(ふわぐん せきがはらちょう)の玉地区には、城山というありふれた名前の山があって、その頂上には玉城跡(たまじょう あと)があります。
以前は関ヶ原青少年自然の家から、ハイキングコースが整備されていたのですけどね。
すっかり廃れていたので、道に迷いながらも何とか城山の頂上まで行ってきました。
玉地区から山頂へと伸びる城山遊歩道は、整備されているようです。

関ヶ原町玉地区の城山に登るため、今須地区から出発したものの、道に迷ったため、関ヶ原鍾乳洞への入り口近くから登り直して、玉城の大堀切跡まで来ました。
玉城の曲輪跡



さて大堀切に設置された丸太の階段を登ってくると、玉城の曲輪跡に着きました。
雑木林が広がっているので判りにくいのですが、端っこは少し盛り上がり土塁になっています。



奥に見える階段を登ると、さらに別の曲輪跡がありました。
相変わらずの雑木林ですが、平らで広い場所であることは判ります。



さらに奥の階段を登ると、広くて奥行きのある曲輪跡がありました。
ここには屋敷が建てられて、たぶん生活の場になっていたものと思われます。
水の手跡らしき窪み

その広くて奥行きのある曲輪跡を奥へ歩いていると、左側に大きな窪地がありました。
窪地の縁が何となく四角くなっているので、人工的に造られた窪地のようです。

推測するに、かつてこの窪地には、生活用水が溜められていたと思われます。
本当にそうだとすると結構大きいので、大勢の人が暮らせたことでしょう。
ただ水源が、ふもとの谷川ぐらいしかありません。
そこから山頂まで水を汲み上げるのは、かなりの重労働だったでしょう。
玉城の本丸跡



さらに奥へ進んでいくと、赤い屋根の建物が見えてきました。
建っている場所は本丸跡のようで、周囲より一段高くなっています。

高台に登ると、そこは城山の頂上のようで、三角点が設置されていました。
すぐ近くには、横長のあずま屋も建てられています。
しかし残念ながら、あたりは草ぼうぼうで、あまり歩き回りたくありません。
本丸跡一帯がどのような地形なのかは、よく判りませんでした。
玉城跡とは

玉城はそもそも南北朝時代に、清和源氏の流れをくむ佐竹義春が築いた砦だと言われています。
足利尊氏(あしかが たかうじ)に追われて、落ち延びてきたのだとか。

城山は、北の北国脇往還、南の東山道(中山道)に挟まれた場所にあります。
両方の街道を見張れるので、都合が良かったのでしょう。
戦国時代には、浜六兵衛や竹中半兵衛の伯父である杉山内蔵助もいたそうです。
交通の要衝として、重要な場所だったのでしょう。
つぎは、城山を下山します。
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