昨日(2019.07.06)、滋賀県長浜市木之本町(ながはまし きのもとちょう)にある賤ヶ岳のふもとを走っていたら、「賤ヶ岳リフト」と書かれた真っ赤な幟(のぼり)を見付けました。
賤ヶ岳リフトが昨日から再開したようなので、早速本日(2019.07.07)乗りに行くことに。
山頂駅に着いたら、以前から行きたかった山本山まで、尾根道を伝って歩いてきました。
賤ヶ岳山本山歩道の入り口から歩きはじめて、山梨子集落と赤尾集落への分岐点を通り抜け、対岸の堅田付近の漁師たちがお祀りしているという有漏(うろ)神社の分岐点まで来ました。
磯野山城址の分岐点

さらに賤ヶ岳山本山歩道を歩いていくと、磯野山城址を指し示す案内板を見付けました。
片道20分とあるので城跡を見て回っていると、往復で 1時間近く掛かるかも知れません。
今回はそんな余裕が無いので、磯野山城址を訪れるのは諦めました。
調べてみると磯野山城址は、賤ヶ岳山本山歩道からかなり外れたところにあります。
県道44号線(さざなみ街道)を通ると見える「磯野山城址」の看板がそうだったようです。
ただ磯野山城址を訪れる人のために、駐車場は用意されていないようです。
木にできた大きなコブ

ところで山の中を歩いていたら、木に出来た大きなコブを見付けてしまいました。
最初見たときは、何かの生き物が木にしがみついているのかと思って、驚いてしまいました。
今までに見た木のコブは、比較的小さなものばかりだったので、ここまで成長するのだと初めて知りました。
山本山 4.3キロ 青もみじをくぐって
さらに山本山を目指して歩いていきます。
西野山古墳は古保利古墳群のはじまり

さて道をどんどんと下っていくと、「西野山古墳」という前方後円墳に着きました。
古保利古墳群(こほり こふんぐん)に属しており、その中でも最大級のものらしいです。
ちなみに「古保利」とは、ふもとにかつてあった古保利村に由来します。
その村の名前もそもそもは、昔の行政単位であった「郡(こほり)」から来ているようです。

さらに進んでいくと、遠くに山本山が望める見通しの良い場所に出ました。
かなり歩いてきたと思いましたが、山本山までの道のりは長いようです。
かつて存在したという阿曽津千軒
西野山古墳を過ぎると、山道は一気に下り坂になります。
あとで山本山に登らなければならないことを考えると、すこし不安になりました。

古墳らしき場所を見ながらひたすら下っていくと、「海老越し」とよばれる尾根越えの道に差し掛かりました。
山道を右へ下りていくと、琵琶湖のほとりにかつて存在した「阿曽津千軒(あそづ せんげん)」とよばれる集落跡に行けるようです。

多くの家が建ち並ぶ集落だったようですが、大津波に飲み込まれて水没してしまいました。
現在は辛うじて石垣だけが遺っているそうです。
阿曽津ばばあの伝承
阿曽津村が水没した話は、周辺地域に「阿曽津婆の伝承」として伝わっています。

昔むかし琵琶湖のほとりには、たいへん栄えた阿曽津村という大きな集落がありました。
そこには大金持ちの老婆が住んでおり、お金を村人たちに貸し付けていたそうです。
ただその老婆のあまりの強欲ぶりに、村人たちは腹を立ててしまい、老婆を簀巻き(すまき)にして、琵琶湖に投げ入れてしまいました。
簀巻きとは、簀(す)で人体を巻いて水中に投げ入れる、という私的制裁のこと。
身動きがとれないので、そのまま放置すれば、溺(おぼ)れて死にます。

たまたま居合わせた堅田の漁師に助けられますが、介抱も虚しく老婆は息絶えてしまいます。
老婆の祟りなのか、間もなく阿曽津村は大津波に襲われてしまいました。
村人たちは村を捨て、命からがら山を越えて、山の東側に住み着いたそうです。
阿曽津の老婆が、簀巻きにされるほど強欲だったかどうかは、実際のところ判りません。
さらに賤ヶ岳山本山歩道を歩きます。
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