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【滋賀】犬上郡甲良町の勝楽寺から裏山の城跡へ その2 (仕置き場と経塚と狐塚篇)

名所史跡めぐり
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国道307号線で、滋賀県犬上郡甲良町(いぬがみぐん こうらちょう)のあたりを走っていたら、勝楽寺(しょうらくじ)の案内板に「佐々木道誉(ささきどうよ)ゆかりの寺」の文字を見付けました。

Google Map(グーグル・マップ)でお寺のあたりを見たら、裏山には勝楽寺城跡もあるようです。
ということで勝楽寺を訪れて、ついでに裏山の正楽寺山(しょうらくじやま)にも登ってきました。

正楽寺山ハイキングコース案内
正楽寺山ハイキングコース案内

勝楽寺の駐車場に自動車を停めて、すぐ横の溜池「西蓮の溜」を見たあとは、勝楽寺の奥にある佐々木道誉の墓を訪ね、正楽寺山の登り口にある大日池を訪れました。

石仏群と砂防ダム

さて勝楽寺駐車場から正楽寺山を登り始めると、登山道の脇にたくさんの石仏群が並べられていました。
石仏群についての説明は何もありませんが、何らかの謂(いわ)れがありそうです。

さらに歩いていくと、ここにも獣害防止柵が設置されていました。
黄色い札に「危険さわるな!」とありますが、扉を自由に開けて出入りしても良いようです。

その先には、三段で構成された巨大な砂防ダムがありました。
普段の川は水量も少なそうですが、大雨のときには激しい濁流に変わるのかも知れません。

勝楽寺城の仕置き場跡

勝楽寺城の仕置き場跡
仕置き場跡

川に架けられた橋を渡ると、仕置き場とよばれる場所があって、いくつもの石仏が並べられています。

かつて勝楽寺の裏山には、勝楽寺城という砦(とりで)が築かれていました。
城主の命令に背(そむ)いたり、掟に従わなかったりした者は、この川辺で処刑されたそうです。

その処刑された人たちの霊を弔(とむら)うために、多くの石仏が作られました。
ただ言い伝えになるほど、石仏の数が多いとは思えません。

川辺にあった石仏の多くは、砂防ダム建設と護岸工事に伴って、勝楽寺の近くへ移設されたと思われます。

佐々木道誉の法要を行った、経塚

仕置き場跡からなだらかな山道を歩いていると、上の方へと続く分かれ道がありました。
落ちていた案内板によると、経塚狐塚城趾へ行けるようです。

前日に降った雨のせいで、すこし歩きにくくなっている坂道を登っていくと、すぐ経塚に着きました。

勝楽寺城の経塚
経塚

佐々木道誉の第三子である高秀が、父の菩提を弔うために、この場所で大法要を営みました。
集まった人たちは、法華経(ほけきょう)の文字を一文字ずつ石に書いて、掘った穴に入れたそうです。

埋め戻した穴の上には、「大乗妙典」と刻まれた石碑が建てられています。

大乗妙典とは、一般的に大乗仏教の代表的な経典である、法華経を指す。
法華経は、妙法蓮華経の略称。

狂言「釣狐」の元になった、狐塚

経塚からしばらく山道を登っていくと、狐塚の案内板があって、その上が見晴台になっていました。
見えるのは湖東平野荒神山琵琶湖ぐらいですが、結構いい眺めです。

背後を見上げると真っ赤な鳥居が見えたので、登っていくと、小さな祠(ほこら)がありました。
この場所が狐塚のようで、祠の裏手に回ると岩場の中に、狐が棲み着いていたと思われる穴があります。

ちなみに正楽寺山の狐塚は、狂言「釣狐」の元になった場所といわれています。

勝楽寺の和尚「璞蔵主(はくぞうす)」には、狩猟好きの弟がいたので、よく殺生を注意していました。
ある日、和尚が外出して山道を帰ってくると、弟が和尚を白狐と間違え、撃ち殺してしまったという話。

狂言では、老狐が僧「白蔵主」に化けて、猟師に狩猟を止めさせようと説得します。
しかし帰り道に、罠の餌であるネズミの油揚げに釣られて、本性をさらけ出してしまったという話。

さらに正楽寺山を登っていきます。

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