滋賀県野洲市小篠原(やすし こしのはら)には、田中山があって別名を甲山いいます。
近江富士ともよばれる三上山から北尾根でつながっており、三上三山の中で一番北に位置しています。
ということで、田中山に登ってきました。
登山の前には弥生の森歴史公園を散策して、帰りに福林寺跡磨崖仏も見に行っています。

田中山頂上から、旗振山を越えて、送電鉄塔をたどりながら、ふもとの墓地まで下ってきました。
福林寺跡磨崖仏へ
福林寺跡磨崖仏への道路案内標識 土手の遊歩道
さて墓地から出てきたら、道路案内標識にしたがって川沿いの土手を歩いていきました。
土手の遊歩道兼サイクリングロードには、エンジ色の舗装が施されていますが、すぐ白い砂利道に変わります。
福林寺跡磨崖仏入り口 至るところに案内板
しばらくすると、福林寺跡磨崖仏への入り口がありました。
鉄柵の扉を通り抜けて橋を渡り、森の中を案内板に導かれるまま歩いていきます。

すると、大岩にいくつもの仏像が彫られた福林寺跡磨崖仏がありました。
大岩に残るひと繋がりの矢穴は、不届き者が石仏を切り出して運び出そうとした痕跡なのだとか。
大正9年の調査報告書によると、石仏の大部分は大阪方面の金持ちの庭へ持ち去られたそうです。
未だ発掘調査中の福林寺跡
福林寺阯標柱 小磨崖仏群
磨崖仏からすこし登ったところには、福林寺阯であることを示す標柱が建てられていました。
近くには背の低い小磨崖仏群もあって、彫られている地蔵菩薩はまるでひざを抱えているようです。

ちなみに山側では、広範囲に渡って発掘調査が行われている最中でした。
今後また、新たな発見がありそうです。
谷川を渡った先にも小磨崖仏群 イノシシのヌタ場兼エサ場
帰りは谷川に沿って下っていくと、また大岩に小磨崖仏群が彫られていました。
なお近くにはイノシシのヌタ場があったので、熊よけ鈴を鳴らしながら行った方が良さそうです。
銅鐸出土の地は、近くの大岩山
国道8号線の手前で右へ 銅鐸博物館へ
さて福林寺跡磨崖仏を見終えたので、もう銅鐸博物館の方へ戻ることにしました。
国道8号線の直前で右へ曲がって適当に歩いていると、運良く銅鐸博物館への道路案内標識が見つかります。

道なりに歩いて丘陵地帯を越えると、銅鐸出土の地の石碑の前に着きました。
この近くの大岩山で、日本一の大きさのものを含む 24個もの銅鐸が、土の中から出てきたそうです。
銅鐸とは、青銅でできた大きなすずのこと。弥生時代に作られた。
当時どのように銅鐸が使われていたのかは、未だ解明されていないのだとか。
なお出土した銅鐸は現在、銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に展示されています。
あとがき
田中山という山名は、一体どこから名付けられたのでしょうか?
かつてはあたりに田園地帯が広がっており、田んぼの中に山があるように見えたのでしょうか。

田中山の別名は「甲山」といいます。
草書体で縦書きしたとき、漢字「甲」を「田中」と読み違えたのかも知れません。
また山なんて三上山以外は似たりよったりなので、となりの山の名前と取り違えたとも考えられます。
近江国輿地志略をひも解くと、大篠原村の永原越前守の古城跡(小堤 城山)を田中山というそうです。
近江国輿地志略. 下(巻49至100) のコマ番号:74/241
国立国会図書館デジタルコレクションより
ちなみに近くの桜生史跡公園の中には「甲山古墳」があります。
同じ名前がいくつもあって紛らわしいので、誰かが一度、整理し直した方が良いのかも知れません。
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