以前、福井県敦賀市刀根(つるがし とね)を通る県道140号線の、柳ヶ瀬トンネルの西側にある丁字路から林道に入って、行き止りから玄蕃尾城まで登ったことがあります。
登山の途中で旧敦賀道の刀根越え(久々坂峠)を通ったのですが、滋賀県側がどんなところなのか気になったので、見に行ってきました。
昔は宿場町として栄えた、柳ヶ瀬へ
敦賀道の難所である刀根越えの滋賀県側は、長浜市余呉町柳ヶ瀬(ながはまし よごちょう やながせ)です。
峠のふもとにある集落なので、国鉄北陸本線が開通して移動が便利になるまでは、柳ヶ瀬宿として大いに賑わったようです。
長浜市余呉町を通る国道365号線を南から北へ走っていたら、「柳ヶ瀬」の標識が出ていたので集落の中に入り、北の端の分かれ道の間にある空き地に自動車を停めさせていただきました。
柳ヶ瀬宿の分かれ道

訪れたときはまだ 6月だったので、額紫陽花(がくあじさい)の花が咲いていました。
あまりにも美しいので花を見に行くと、分かれ道のところで、自然石に刻まれた道しるべと、倉坂峠(くらさか とうげ)と玄蕃尾城(げんばおじょう)の説明板を見付けました。
自然石の道しるべ

自然石の道しるべには、次のように刻まれていました。
- 左 つるが 三国ふ袮のり者(=敦賀 三国船乗り場)
- 右 ゑちぜん かゞの登道 (=越前 加賀能登道)
三国船乗り場とは、敦賀湊で三国湊行きの船に乗れるという意味だと思われます。
山を越えて越前に入るのは大変なので、船賃を出せる人は、船で三国湊まで行ったのでしょう。
三国湊は、福井県坂井市三国町(さかいし みくにちょう)にあります。
江戸時代において敦賀湊と三国湊は、越前を代表する湊町でした。
倉坂峠と玄蕃尾城
説明板には、倉坂峠と玄蕃尾城についての記述がありました。
不思議に思ったのは、峠の名前が「倉坂峠」になっていることです。

以前その峠に行ったとき、そこには「久々坂峠(くぐさか とうげ)」になっていました。
ボクの推測では、鬱蒼とした森の暗い坂道だったので「くらさか」なのだと考えています。
いろんな書き方があり、「倉坂」や「久良坂」などと記したのでしょう。
現代のように学校教育が盛んになる以前は、同じ地名を表していても、人によって使う漢字が違っていたようです。
倉坂の入り口まで
倉坂峠(刀根越え)と玄蕃尾城址への道は、あまり案内板などがありません。
あらかじめ大体の予想をしてから、登山口まで歩く必要があります。
これから山登りが始まるというところで、ようやく案内板が木に立てかけてありました。
登山道はあまり人が歩いていないらしく、枯れた杉の枝が散らかっています。
結局、倉坂峠に着くだけなので、実際に登るのは止めておきました。
あとがき
説明板によると、明治元年に明治天皇が旧敦賀道を通って、北陸へ巡幸されたそうです。
当時はまだ、国鉄北陸本線が開通していなかったので、旧敦賀道は主要道だったのです。
そういえば以前、福井県南条郡南越前町(なんじょうぐん みなみえちぜんちょう)の今庄宿を散策したとき、明治天皇今庄行在所がありました。

馬車などに乗って移動したのだと思っていたのですが、山歩きをしたとなると大変そうです。
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